中世の群郭式山城と西洋工法の遺構が残る城
人吉城_はねだし石垣03
人吉城_はねだし石垣03

目次

人吉城の見どころとイベント

人吉城_隅櫓と長塀、多聞櫓03
人吉城_隅櫓と長塀、多聞櫓03
人吉城_堀合門01
人吉城_堀合門01
人吉城_人吉城歴史館01
人吉城_人吉城歴史館01
人吉城の見どころは、幕末の大火後に築かれた全国でも極めて珍しい「はね出し石垣」と、球磨川に面して設けられた「水ノ手門跡」です。
はね出し石垣は、敵がよじ登るのを防ぐ武者返しの役割を持ち、さらに火災の延焼を防ぐための構造も備えています。
水ノ手門は船着き場と直結しており、物資の搬入と防御を両立した巧みな設計で、当時の生活と戦略の知恵を感じられます。
人吉城は、丘陵地と球磨川の自然地形を巧みに利用した城で、本丸・二ノ丸・三ノ丸を複雑な石垣と堀で囲み、各郭を石段や門で結んだ堅固な構造を持ちます。
城の修築をしている際、三日月の文様の石が出土したため、別名「三日月城(みかづきじょう)」「繊月城(せんげつじょう)」とも呼ばれています。
人吉城は熊本県人吉市の中心部、球磨川と胸川の合流点という要衝に築かれました。
背後には青井岳や人吉盆地などの険しい山々がそびえ、まさに天然の要塞でした。
城下を通る旧薩摩街道は、薩摩藩や日向方面への交通路として賑わい、球磨川を利用した水運により物資や情報の流通を支えました。
周辺には、城主である相良氏の氏神を祀る相良神社や、国宝の青井阿蘇神社などがあり、川や街道に沿って発展した城下町は、今も歴史的町並みが残ります。
鎌倉時代初期から幕末までの約700年にわたり、相良氏が人吉・球磨地方を統治しました。
1199年に長頼は人吉城にいた代官・矢瀬主馬佑を討ち、城の修繕・改築を始めました。
戦国時代には中原城や上原城などの群郭式山城として発展、江戸時代には近世城郭として整備され、本丸・二ノ丸・三ノ丸や多聞櫓、水ノ手門などが完成しました。
1862年の大火では多くの建物を失いましたが、頼基が西洋式のはね出し石垣を導入して再建しました。
1871年の廃藩置県で人吉城は廃城となり、建物は失われたものの、今も堅固な石垣や遺構が当時をしのばせます。
春は桜が咲き誇り、秋には鮮やかな紅葉が見られ、人吉城の石垣とのコントラストが美しい絶景を魅せてくれます。
毎年夏には球磨川沿いで「人吉花火大会」が開かれ、人吉城跡のふるさと歴史の広場から夜空を彩る花火が楽しめます。
また、秋には青井阿蘇神社の例大祭「おくんち祭」が開催されます。
平安時代から続く伝統的な秋祭りで、神輿や神馬、稚児などの行列が市内を練り歩きます。

人吉城へのアクセス方法

飛行機で行く場合

鹿児島空港から九州自動車道を使って車で約50分
熊本(阿蘇くまもと)空港から九州自動車道を使って車で約70分

▼レンタカーは以下
鹿児島空港の場合
・トヨタレンタリース鹿児島空港店 0995-58-2306
・日産レンタカー鹿児島空港店 0995-58-2121
・ニッポンレンタカー鹿児島空港営業所 050-1712-2365

熊本(阿蘇くまもと)空港の場合
・トヨタレンタリース 熊本空港店 096-232-0100
・日産レンタカー 熊本空港店 096-287-1355
・ニッポンレンタカー 熊本空港営業所 050-1712-2378

新幹線・電車で行く場合

・九州新幹線:JR新八代駅下車
新八代駅で高速バス「B&Sみやざき(宮崎方面行)」に乗車し、「人吉IC」で下車
「人吉IC」から人吉周遊バス「じゅぐりっと号」に乗車、「人吉駅前」で下車
そこから徒歩で目指します。(20分ほど)

※肥薩線(八代~吉松間)は災害復旧中のため運行停止中

車で行く場合

九州自動車道 人吉ICより県道54号経由で約10分
以下をナビに登録ください。
人吉観光駐車場
住所:〒868-0051 熊本県人吉市麓町

駐車場

人吉観光駐車場
住所:〒868-0051 熊本県人吉市麓町

人吉城、最寄りの場所からのアクセス方法

大橋を渡って、隅櫓と球磨川、胸川を城の外側から眺めながら、
多聞櫓→大手門跡→人吉城歴史館→御館御門橋を渡って相良神社(御館跡)→堀合門→御下門跡→中御門跡→二ノ丸→本丸に登り、御下門に戻って、水ノ手門→はねだし石垣を巡り、本丸東側にある原城跡を見学するルートでご紹介いたします。

人吉城を散策する

隅櫓

人吉城_隅櫓と長塀、多聞櫓02
人吉城_隅櫓と長塀、多聞櫓02
駅から大橋を渡るとすぐに人吉城隅櫓です。
【隅櫓(すみやぐら)】は城の北西隅、球磨川と胸川の合流点を見下ろす要所に置かれ、川の両方を監視するための展望・防衛施設でした。
構造は本瓦葺き入母屋造りの平屋建てで、規模は詳細不明ながら櫓として典型的なひと棟構造を踏襲しています(梁間2〜3間程度)。
城郭は原城を中心に相良氏によって鎌倉時代から整備されてきましたが、隅櫓は江戸時代の大改修時につくられたと思われます。
明治の廃城や西南戦争で消失しましたが、1989年に史料に基づき正確に復元されました。

多聞櫓

人吉城_多聞櫓02
人吉城_多聞櫓02
人吉城_大手門跡と多聞櫓01
人吉城_大手門跡と多聞櫓01
隅櫓と長塀伝いに進むと【多聞櫓】です。
人吉城大手門脇に復元された【多聞櫓(たもんやぐら)】は、江戸時代前期(1640年代)に建てられ、平成5年(1993年)に古写真等をもとに忠実に復元されました。梁間2間(約3.6m)、桁行25間(約45m)という細長い長屋状構造で、下見板張りの外壁と白漆喰および板張の塗り分けによる美しい意匠が特徴です。
城の正面玄関にあたる大手門を強化する役割があり、門を通る敵に対して櫓からの防御や監視を可能にしていました。
また、隣接する続塀には石落とし機能を備え、城防備の重要な一翼を担っていました。復元櫓は内部に入場でき、発掘出土品の展示や建築構造の観察が可能。歴史館と併せて、訪問者に江戸期の城郭構造と防衛思想を伝える貴重な文化施設といえます。

人吉城歴史館と地下室遺構

人吉城_人吉城歴史館02
人吉城_人吉城歴史館02
多聞櫓横の大手門跡を通り城内に入りました。左手に見えるきれいな建築物が【人吉城歴史館】です。
2005年に開館し、2025年7月11日にリニューアルオープンしたガイダンス施設で、相良氏が700年にわたり統治した人吉城跡の歴史や文化を映像・資料で分かりやすく紹介しています。城跡全体の理解を深める展示棟と管理棟に加え、城跡中庭にある地下室遺構覆屋を設置されていて、遺構そのものを間近に見学できるリアルな空間を提供しています。1997〜98年の発掘調査で偶然発見された地下空間で、相良清兵衛(1568–1655)の屋敷跡にありました。石積みで囲まれた南北約5.2m × 東西約6m・深さ約2.3〜3.2mの広さで、内部に階段付きの井戸(浴槽状)があり、井戸には水中階段があり、水深は約2.3m。西洋の洗礼池に似た設計から、宗教的施設、貯水槽、沐浴所など多様な仮説が提起されていますが、用途は未確定です。

相良神社(御舘跡)

人吉城_相良神社02
人吉城_相良神社02
人吉温泉元湯方面に南に進み左折して御館御門橋を渡ったところに【相良神社】があります。江戸時代は藩主の御舘跡だった場所です。
【相良神社】は1880年(明治13年)に創建され、700年にわたり人吉球磨を治めた相良家歴代当主を祀っています。神社の参道や社殿、庭園などは城郭空間の一部として造られ、参拝を通して藩政文化と城の様相を感じられる構成です。庭園には池や築山が配され、池には鯉も泳いでおり、訪問者に憩いの場を提供しています。社殿は拝殿・本殿を備え、木造平面構造で、石垣や堀跡とともに城跡の景観と調和しています。
神社は慰霊碑や宝物館も併設され、相良氏にかかわる資料展示も行われていますのでのぞいてみてください。

堀合門

人吉城_堀合門03
人吉城_堀合門03
相良神社の社殿を抜けて御舘のあった広場を抜けて進むと【堀合門】です。
【堀合門(ほりあいもん)】は、藩主の御館(城主居館)の北側に設けられた裏門で、防衛・出入口の役割を担っていました。
江戸時代末期の大火に耐え、焼失を免れた唯一の門で、木造切妻屋根、比較的小規模な単層門です。
明治維新後城下の新宮家に移築されていましたが、1970年代(平成19年/2007年)に人吉城内の本来あった場所近くに再建されました。
御館と外部を隔てる重要な会所的門で、藩主や家臣の出入り、緊急時の避難経路でした。また水の手(球磨川側)の門とも連携し、城全体の防御体制の一翼を担っていたとも考えられています。

二ノ丸

人吉城_御下門跡01
人吉城_御下門跡01
人吉城_中御門跡01
人吉城_中御門跡01
人吉城_二ノ丸02
人吉城_二ノ丸02
【堀合門】を下り右折して進むと【御下門跡】があり、これを上ると【中御門】。これをこえると【二ノ丸】です。
【二ノ丸】は、城主・相良氏の御殿が置かれた城内の中心的居住・儀礼の場で、江戸時代初期に整備された城郭の核心でした。
城内では御殿を構え、藩主や側室、子女の日常空間として機能し表向けの儀式的建物も存在。現在は林のように樹木が茂る空間ですが、かつては4×9間の広間を含む6棟が廊下で結ばれた大規模建造群でした。二ノ丸跡からは三の丸や城下町を望む見晴らしが良く、熊本・人吉盆地の展望地点としても位置づけられています。

本丸

人吉城_本丸01
人吉城_本丸01
二ノ丸脇の階段を上ると【本丸】です。
二ノ丸に比べると*小さな曲輪(郭)で、天守などはなく二重の護摩堂や御先祖堂、山伏番所が置かれていたと考えられます。
現在は、護摩堂の礎石を見ることができます。
藩主の居館や幕府への対応を主とした二ノ丸・御館とは異なり、護摩堂を中心とした宗教的・象徴的な領域であり、天守に代わる「威信と祈りの場」であったのではと思われます。

水ノ手門

人吉城_水ノ手門跡01
人吉城_水ノ手門跡01
【本丸】から【御下門跡】に戻り左折して進むと左手に【水ノ手門跡】があります。
水ノ手門は、江戸時代に整備された人吉城の 4つの城門の一つで、球磨川沿いに設けられた 船着き場に連結する水上門でした。
年貢米や塩など物資の搬入拠点として機能し、周囲には米蔵や塩蔵が並んでいたことが古絵図や発掘調査で判明しています。
構造的には、川岸の石垣上に 幅約三間(約5.4m)前後の薬医門形式の板葺門が建てられ、門内外に数段の階段が設けられて河原へ通じていました。

はねだし石垣

人吉城_はねだし石垣04
人吉城_はねだし石垣04
【水ノ手門跡】の向かいには石垣の上部が突起状にはみ出した石垣が続きます。これが【はねだし石垣】です。
【はねだし石垣(別名・武者返し)】は、幕末(文久2年/1862年)の城下大火(寅助火事)後、御館(藩主居館)の防火と防御強化を目的に築かれました。当時の焼失した長櫓に代えて、石垣をかさ上げし、上端をわずかに突き出す「西洋式はね出し工法」を採用した独特の構造です。登ってきた敵を上から石を落として撃退できるよう設計され、日本では五稜郭や品川台場と並ぶ非常に珍しい形式で、和風城郭では人吉城だけとされます。

原城跡

一度人吉温泉元湯方面に向かい人吉城を出て左折しまっすぐ道を進み瑞祥寺に向かいます。ここには瑞祥寺を中心にした人吉城の前身である中世城跡【原城跡(はらんじょう・原城)】がありました。
原城は、室町期から戦国期にかけて相良氏が球磨地方を支配する拠点として築いた群郭式山城で、丘陵上の台地に中原城・上原城・下原城など複数の曲輪(郭)を配置していました。掘りの空堀や堀切、土塁、尾根上の削平地などが確認されており、築城当初は石垣よりも土の防御構造が中心でした。また丘陵の尾根や谷を利用した視界遮断・防御配置で、自然地形を巧みに活かした設計で、中世期には原城が政治拠点・防衛の要所として機能していたと考えられます。

人吉城の御城印と百名城スタンプ

人吉城の御城印

人吉城の御城印は以下の場所で購入できます。
相良護国神社
住所:〒868-0051 熊本県人吉市麓町35-1
営業時間:24時間営業
休業日:年中無休
販売金額:500円

人吉城の日本百名城スタンプ

人吉城の日本百名城スタンプは以下で押せます。
人吉城歴史館
住所:〒868-0051熊本県人吉市麓町18-4
営業時間:9:00~17:00(入館時間は16:30まで)
休業日:毎週火曜日(祝日の場合はその翌日)、年末年始
※休館日もスタッフに声を掛けると押印可能

人吉城の入城情報

所在地

〒868-0051 熊本県人吉市麓町

開城時間

24時間OK

休城日

年中無休

料金

無料

製作スタッフ紹介

記事担当

倉の丞
倉の丞
歴史作家。城郭ナビゲーター。
城巡り歴は約40年ほど。防衛施設としての城もさることながら城下町としての街づくりが好き。
特に江戸時代の教育・文化・経済に強く惹かれています。
日本100名城、日本続100名城を中心に訪れたお城の数は150城を超え、2025年に200城を目指し日夜研鑽中。
現在、城トリップで仲間たちと城巡りの情報交換を行いながら記事更新しています。