秋の本城周辺
ここからは、地下鉄有楽町線「桜田門」下車から西ノ丸下→西ノ丸外観→三ノ丸→二ノ丸→本丸→北ノ丸を通りながら、主だった櫓、門、塀や堀・石垣などをご紹介してまいります。
西ノ丸下(桜田濠、桜田門・櫓門)、現在の皇居前広場

地下鉄 桜田門駅3番出口を出ると、すぐ道路沿いに桜田濠と桜田門が見えます。早速を渡って右折すると桜田門正面です。
桜田門



桜田門は高麗門形式で建築された桜田門とその右に配置されている桜田櫓門の2つの建築物の総称です。江戸時代から現存する貴重な建築物の1つで、国の重要文化財に指定されています。江戸時代の桜田門とその櫓門は枡形虎口になっており、門右側に配置された櫓門から鉄砲や弓矢で攻撃できる設計になっています。
櫓門は門に対して右側に配置されるのが一般的で、これは攻めてくる人間が顔や胸の半身を必ず門側にむけさせるための工夫でした。
桜田門は日本史の教科書にも登場していますので知っている人も多いかと思いますが、1860年(安政7年)大老井伊直弼が水戸浪士と薩摩藩士によって暗殺された桜田門外の変があった場所で、当時の井伊家江戸屋敷は桜田門から500mの場所にありました。
櫓門は門に対して右側に配置されるのが一般的で、これは攻めてくる人間が顔や胸の半身を必ず門側にむけさせるための工夫でした。
桜田門は日本史の教科書にも登場していますので知っている人も多いかと思いますが、1860年(安政7年)大老井伊直弼が水戸浪士と薩摩藩士によって暗殺された桜田門外の変があった場所で、当時の井伊家江戸屋敷は桜田門から500mの場所にありました。
西ノ丸(外観)


門をくぐって左に曲がり進み、丸の内警察署祝田町交番を左折して進むと西ノ丸大手門
が見えてきます。
西ノ丸は前述のように、宮内庁エリアで天皇の住まいになっているため通常一般公開されていませんので外側(皇居前広場)からの観ることになります。
が見えてきます。
西ノ丸は前述のように、宮内庁エリアで天皇の住まいになっているため通常一般公開されていませんので外側(皇居前広場)からの観ることになります。
伏見櫓(外観)

江戸城西ノ丸の南西に造られた多門櫓で両隅が二重櫓になっています。多門部分は戦時中、鉄炮や兵糧米を貯蔵する場所になりました。伏見櫓はその名の通り、3代将軍家光の命で京都伏見城から移築したものだとされています。
また、二重橋(鉄橋)の奥に見える伏見櫓の写真は、代表的な江戸城の写真としてもつかわれるくらい有名です。
また、二重橋(鉄橋)の奥に見える伏見櫓の写真は、代表的な江戸城の写真としてもつかわれるくらい有名です。
坂下門(外観)



西之丸下を北にまっすぐ進むと三の丸が見えてきます。左手に二重橋濠、北には蛤濠にかかる橋の先にあるのが坂下門です。
坂下門は櫓門で西ノ丸大奥に近く、西ノ丸通用門として使われていました。
1862年(文久2年)、老中・安藤信正がこの門外で水戸浪士によって襲われた「坂下門外の変」が有名です。
坂下門は櫓門で西ノ丸大奥に近く、西ノ丸通用門として使われていました。
1862年(文久2年)、老中・安藤信正がこの門外で水戸浪士によって襲われた「坂下門外の変」が有名です。
三ノ丸



西ノ丸下(皇居前広場)を北に進むと三の丸があります。西ノ丸下北端の西側には前述の坂下門があり、正面には桔梗門、その右隣には国の重要文化財に指定された桜田巽櫓があります。
江戸城桔梗門は、正月祝賀時に行われる一般参賀の入場門で、一般参賀時期以外は通ることができません。門には警察署員が配備されていますのでご注意ください。
江戸城桔梗門は、正月祝賀時に行われる一般参賀の入場門で、一般参賀時期以外は通ることができません。門には警察署員が配備されていますのでご注意ください。
桜田巽櫓と大手門



桜田巽櫓は全国でも最大規模を誇る二重の隅櫓で、破風や石落としが見られる重要な防御施設です。桔梗濠から眺めると手前に桜田巽櫓、奥に桔梗門、その奥に富士見櫓が見えますので、よろしければ写真撮影してみてください。
桔梗濠沿いを真っすぐ北に進むと左手に大手門が見えてきます。(ここで手荷物検査があります)
この門をくぐり発券所で城内見学の券を購入してください。
門を出て左折し、突き当りを右折して進んでいくとと二の丸庭園が右手に、石垣と白鳥濠が左手に見えてきます。
これをこえて更に右折右折と石垣をまわるように進むと平川門に出ます。(ここにも警備の方がいます)
桔梗濠沿いを真っすぐ北に進むと左手に大手門が見えてきます。(ここで手荷物検査があります)
この門をくぐり発券所で城内見学の券を購入してください。
門を出て左折し、突き当りを右折して進んでいくとと二の丸庭園が右手に、石垣と白鳥濠が左手に見えてきます。
これをこえて更に右折右折と石垣をまわるように進むと平川門に出ます。(ここにも警備の方がいます)
平川門



平川門は、太田道灌が築城した当初からあったようで、当時平川濠を越えてすぐに上平川村と下平川村があったことから名づけられたとされています。
江戸時代は江戸城三の丸の正門で、木造の橋を通ると塀で囲まれた門を右に折れて高麗門の第1門、その奥に枡形となった櫓門の第2門が控えるつくりになっています。
平川門を後にして平川濠を見ながら左に折れて進むと二の丸に入ります。
すぐ手前右側には本丸に続く梅林坂、左は二の丸庭園に続く道になっています。
江戸時代は江戸城三の丸の正門で、木造の橋を通ると塀で囲まれた門を右に折れて高麗門の第1門、その奥に枡形となった櫓門の第2門が控えるつくりになっています。
平川門を後にして平川濠を見ながら左に折れて進むと二の丸に入ります。
すぐ手前右側には本丸に続く梅林坂、左は二の丸庭園に続く道になっています。
二ノ丸
江戸城二ノ丸は江戸城普請の2回目、寛永の普請から二の丸御殿を中心とした政治の執務中心地となったようですが、昭和に入り、小堀遠州の回遊式庭園をルーツにした日本庭園が整備され現在の庭園となりました。
二の丸庭園と百人番所



二の丸庭園は池泉回遊式庭園で、江戸時代初期に家康の命を受けた小堀遠州が作庭し、三代将軍家光の命によって改修されました。明治維新以降、荒廃が進みましたが、昭和63年に、江戸幕府九代将軍徳川家重時代の庭園図面を参考に復元されました。
また、当時吹上にあった諏訪の茶屋も二の丸庭園内に移築されています。
春にはツツジやサツキが色づき、初夏にはハナショウブ、秋にはドウタンツツジや紅葉が美しく、非常に趣のある庭園です。
南に下ると右手に白鳥濠と石垣群が見え、さらに進むと右手に同心所、左手には百人番所があります。
また、当時吹上にあった諏訪の茶屋も二の丸庭園内に移築されています。
春にはツツジやサツキが色づき、初夏にはハナショウブ、秋にはドウタンツツジや紅葉が美しく、非常に趣のある庭園です。
南に下ると右手に白鳥濠と石垣群が見え、さらに進むと右手に同心所、左手には百人番所があります。
大番所から本丸



百人番所を左に見ながら中之門跡の石垣を抜けるとすぐ右手に大番所があります。
大番所を背に坂を上り中雀門跡を過ぎれば本丸です。
広大な緑の芝生と一際大きな木が目に飛び込んできます。
そのはるか先に天守台がちらっと見えます。
大番所を背に坂を上り中雀門跡を過ぎれば本丸です。
広大な緑の芝生と一際大きな木が目に飛び込んできます。
そのはるか先に天守台がちらっと見えます。
江戸城 富士見櫓


江戸城 富士見櫓は、中雀門を通って本丸南端に位置する三重の櫓門で、明暦の大火で焼失した大天守の役割を担った重要な建造物です。櫓の上からは、富士山はもとより、秩父連山や筑波山、先は東京湾も一望できました。
大田道灌の詠み歌にある「わが庵は松原つづき海近く富士の高嶺を軒端にぞ見る」はこの場所からではないかといわれています。
大田道灌の詠み歌にある「わが庵は松原つづき海近く富士の高嶺を軒端にぞ見る」はこの場所からではないかといわれています。
江戸城 富士見多門櫓



富士見櫓を後にして本丸庭園内を北に進むと左手に富士見多聞櫓が見えてきます。
一層一階の建築物で食料や弾薬を備蓄する場所でした。江戸時代本丸にはいくつか多門櫓が存在していますが現存するのはこの一棟のみとなっています。
近くには、大奥の調度品や文書類を収蔵したとされる石室もありますので合わせご覧ください。
一層一階の建築物で食料や弾薬を備蓄する場所でした。江戸時代本丸にはいくつか多門櫓が存在していますが現存するのはこの一棟のみとなっています。
近くには、大奥の調度品や文書類を収蔵したとされる石室もありますので合わせご覧ください。
江戸城 天守台



石室を後にし、更に北に向かうと江戸城天守台が見えてきます。
江戸城大天守は、徳川家康、秀忠、家光と三代にわたって建築されましたが、残念ながら現在は天守台を残すのみとなっています。
家康時代の天守は、現在よりも南のちょうど富士見多門櫓あたりにあったようで、現在の天守台がある位置は秀忠時代から天守からとなります。1623年(元和9年)に完成した天守は18m以上あり、家康時代のものよりも大きかったようです。その後、火災で天守が焼失すると三代将軍家光が同じ場所に1638年(寛永15年)に五層五階の天守を建てました。しかし、この天守も1657年の明暦の大火で焼け落ち、以降天守は再建されることはありませんでした。
現在は、寛永期に加賀前田家の普請で造られた巨大花崗岩の石垣だけが跡を残しています。
江戸城大天守は、徳川家康、秀忠、家光と三代にわたって建築されましたが、残念ながら現在は天守台を残すのみとなっています。
家康時代の天守は、現在よりも南のちょうど富士見多門櫓あたりにあったようで、現在の天守台がある位置は秀忠時代から天守からとなります。1623年(元和9年)に完成した天守は18m以上あり、家康時代のものよりも大きかったようです。その後、火災で天守が焼失すると三代将軍家光が同じ場所に1638年(寛永15年)に五層五階の天守を建てました。しかし、この天守も1657年の明暦の大火で焼け落ち、以降天守は再建されることはありませんでした。
現在は、寛永期に加賀前田家の普請で造られた巨大花崗岩の石垣だけが跡を残しています。
江戸城 北桔橋門


天守台を後にして北側に向かうと北桔橋門です。
江戸城 北桔橋門は直接天守に向かう重要な防御施設であり、北の丸と本丸をつなぐ位置にあります。特徴的なのは門そのものよりもその石垣の構造です。
東に平川濠、西に乾濠に挟まれたこの石垣は、下から石垣→土塁→石垣という三層構造になっており、濠の基礎部分を石垣で作りつつも濠の水面から上部分が土塁を固め、さらに土塁の崩落を防ぐために芝生が植えられています。土塁上の石垣は鉢巻石垣と呼ばれ、高さ3mあり、橋そのものもつり橋となっていました。
江戸城 北桔橋門は直接天守に向かう重要な防御施設であり、北の丸と本丸をつなぐ位置にあります。特徴的なのは門そのものよりもその石垣の構造です。
東に平川濠、西に乾濠に挟まれたこの石垣は、下から石垣→土塁→石垣という三層構造になっており、濠の基礎部分を石垣で作りつつも濠の水面から上部分が土塁を固め、さらに土塁の崩落を防ぐために芝生が植えられています。土塁上の石垣は鉢巻石垣と呼ばれ、高さ3mあり、橋そのものもつり橋となっていました。
江戸城 北ノ丸(北の丸公園)


本丸北桔橋門を通り、大きな道路を渡り北に向かうと江戸城北ノ丸です。江戸城北ノ丸は、現在一般の方々が常時利用できる公園として整備されています。
徳川時代の当初より徳川家直系の屋敷地であり、江戸中期から徳川田安家、徳川清水家の屋敷地となりました。
徳川時代の当初より徳川家直系の屋敷地であり、江戸中期から徳川田安家、徳川清水家の屋敷地となりました。
江戸城 清水門


清水門は高麗門と右側に櫓門が連立する枡形門で、徳川御三卿の清水家屋敷区割りにありました。
江戸城 田安門



田安門も清水門同様に、高麗門と右側に櫓門が連立する枡形門で、徳川御三卿の田安家屋敷区割りにありました。門の由来は、平川門と同じく門を出た場所すぐに当時田安大明神(現・築土神社)があったことによります。
田安門の金属細工は非常に精巧で一見の価値がありので、ぜひ見てみてください。
田安門の金属細工は非常に精巧で一見の価値がありので、ぜひ見てみてください。
吹上(吹上御苑)


北桔橋門を左の濠沿いにずっと進むと広大な内堀と吹上の鉢巻土塁が続きます。
その外周は約2Kmと非常に長く、乾門から始まり半蔵門を通り、さらに桜田門まで続きます。
その外周は約2Kmと非常に長く、乾門から始まり半蔵門を通り、さらに桜田門まで続きます。