「人は石垣」、武田信玄が政務を行った居館
躑躅ヶ崎館と入口の鳥居
武田氏館(躑躅ヶ崎館)の見どころとイベント
武田氏館は別名「躑躅ヶ崎館」とも呼ばれ、戦国時代の有名な武将「武田信玄」が城にしていたことで有名です。
信玄時代の城は、主に平時に政務を執り行う場所としての「躑躅ヶ崎館(武田氏館)」と敵が攻めてきたときに籠城して敵の攻撃を防ぐための場所としての「要害山城」の2つに分かれていました。
武田氏館には往時の建造物は残されていません。ただ曲輪の跡・石垣・天守台・水堀などはほぼかつての状態で残っており、貴重な武田氏築城技術のさまを現在に伝えています。
武田氏館で行われるイベントは、信玄の命日である4月12日の「武田二十四将騎馬行列」が有名です。信玄公祭りと一緒に行われるイベントで、信玄を支えた24人の名将に扮した人々が、甲冑を身に付けて馬にまたがりながら市内を進みます。
信玄時代の城は、主に平時に政務を執り行う場所としての「躑躅ヶ崎館(武田氏館)」と敵が攻めてきたときに籠城して敵の攻撃を防ぐための場所としての「要害山城」の2つに分かれていました。
武田氏館には往時の建造物は残されていません。ただ曲輪の跡・石垣・天守台・水堀などはほぼかつての状態で残っており、貴重な武田氏築城技術のさまを現在に伝えています。
武田氏館で行われるイベントは、信玄の命日である4月12日の「武田二十四将騎馬行列」が有名です。信玄公祭りと一緒に行われるイベントで、信玄を支えた24人の名将に扮した人々が、甲冑を身に付けて馬にまたがりながら市内を進みます。
目次
武田氏館(躑躅ヶ崎館)へのアクセス方法
新幹線・電車で行く場合
JR中央本線・甲府駅北口より北へ一本道2.2km徒歩約35分
山梨交通バス「武田神社」行き約8分
山梨交通バス「武田神社」行き約8分
車で行く場合
中央自動車道・甲府昭和IC 約30分
駐車場
武田神社 参拝者駐車場(大型可)
所在地:〒400-0014 山梨県甲府市古府中町
電話: 055-252-2609
武田神社駐車場
所在地:〒400-0014 山梨県甲府市古府中町
甲府市武田氏館跡歴史館(信玄ミュージアム)
平日:午前10時00分~午後3時00分
土日・祝日:午前10時00分~午後5時00分
所在地:〒400-0014 山梨県甲府市古府中町
電話: 055-252-2609
武田神社駐車場
所在地:〒400-0014 山梨県甲府市古府中町
甲府市武田氏館跡歴史館(信玄ミュージアム)
平日:午前10時00分~午後3時00分
土日・祝日:午前10時00分~午後5時00分
武田氏館(躑躅ヶ崎館)、最寄りの場所からのアクセス方法
武田氏館は山梨県甲府市古府中町にある連郭式の平城です。JR甲府駅北口から山梨交通バスに乗って約10分、「武田神社」バス停で下車して徒歩約2分のところにあります。車でアクセスする場合は、中央自動車道の甲府昭和インターから国道20号線や山梨県道7号線などを経由して約25分です。
築かれた場所の当時の地名が「躑躅ヶ崎(つつじがさき)」だったことから、「躑躅ヶ崎館」の別名でも有名です。
今回は、信玄当時の大手門があった【大手】エリアから政務の中心だった【主郭】、長男義信の居館【西曲輪】、兵糧庫の【味噌曲輪】、戦勝を祈願した神社を祀る【稲荷曲輪】、母親の大井夫人が暮らした【御隠居曲輪】、江戸時代甲府城築城中に増築された【梅翁郭】と見ながらご紹介していきます。
築かれた場所の当時の地名が「躑躅ヶ崎(つつじがさき)」だったことから、「躑躅ヶ崎館」の別名でも有名です。
今回は、信玄当時の大手門があった【大手】エリアから政務の中心だった【主郭】、長男義信の居館【西曲輪】、兵糧庫の【味噌曲輪】、戦勝を祈願した神社を祀る【稲荷曲輪】、母親の大井夫人が暮らした【御隠居曲輪】、江戸時代甲府城築城中に増築された【梅翁郭】と見ながらご紹介していきます。
武田氏館(躑躅ヶ崎館)を散策する
大手
大手エリアは武田氏館の正門があった場所です。現在の武田神社正門とは異なり、館の東に正門が設けられていました。過去に行われた発掘調査で、門付近から三日月状の堀が出土しています。出土した三日月堀は全長約30m・幅約4~5m・深さ約2.5mと考えられています。
三日月堀は武田氏が築城の際に多く活用していた堀で、堀の内側に沿って土塁を築いて防御拠点としていました。武田氏に仕えた名将・高坂弾正昌信が記した『甲陽軍鑑』によれば、信玄の軍師として名高い山本勘助が伝授したとされています。
なお大手門跡の外側からは土塁・石垣や厩も検出しています。特に厩は伝令用の馬を繋いでおくために活用されていました。現在では武田氏館跡大手門東史跡公園として整備されています。
三日月堀は武田氏が築城の際に多く活用していた堀で、堀の内側に沿って土塁を築いて防御拠点としていました。武田氏に仕えた名将・高坂弾正昌信が記した『甲陽軍鑑』によれば、信玄の軍師として名高い山本勘助が伝授したとされています。
なお大手門跡の外側からは土塁・石垣や厩も検出しています。特に厩は伝令用の馬を繋いでおくために活用されていました。現在では武田氏館跡大手門東史跡公園として整備されています。
主郭(東曲輪・中曲輪)
主郭(=東曲輪・中曲輪)は武田氏館の中で最も東側に位置する曲輪です。館の主要な区域で、東曲輪は武田氏の当主による政治の場、中曲輪は当主の生活の場として活用されていました。現在ではかつて居館があった場所に武田神社の社殿が建っています。
社殿の脇には「姫の井戸」と呼ばれる古井戸が残っています。武田信玄の娘・松姫が生まれた際に産湯に使ったとされる場所です。井戸は「茶の湯の井戸」という別名もあり、実際に過去の発掘調査で当時使われていた茶釜などの茶道具が出土しています。
南側にはかつて居館全体を囲んでいた水堀の一部に接しています。水堀沿いには石垣も残ってい入るものの、木々が生い茂っていてはっきりとは見えません。
社殿の脇には「姫の井戸」と呼ばれる古井戸が残っています。武田信玄の娘・松姫が生まれた際に産湯に使ったとされる場所です。井戸は「茶の湯の井戸」という別名もあり、実際に過去の発掘調査で当時使われていた茶釜などの茶道具が出土しています。
南側にはかつて居館全体を囲んでいた水堀の一部に接しています。水堀沿いには石垣も残ってい入るものの、木々が生い茂っていてはっきりとは見えません。
西曲輪
西曲輪は主郭の西側にあった区域です。1551(天文20)年に武田信玄が嫡男の義信と今川義元の娘が結婚した際に新居として建てました。主郭とは堀や石垣で区切られており、両方の往復には土橋が使われていました。
西曲輪の北側と南側には、各々2つの門と土塁・石垣で構成される枡形虎口がありました。現在でも当時使われていた石垣や土塁の跡が随所に残っています。また2011年の発掘調査では義信らが住んでいた館の跡も出土しました。
南西側には水堀や石垣が比較的明確に見える状態で残っている点も西曲輪の特徴です。水堀の幅も端に位置する分広めで、防御力の高さがうかがえます。
西曲輪の北側と南側には、各々2つの門と土塁・石垣で構成される枡形虎口がありました。現在でも当時使われていた石垣や土塁の跡が随所に残っています。また2011年の発掘調査では義信らが住んでいた館の跡も出土しました。
南西側には水堀や石垣が比較的明確に見える状態で残っている点も西曲輪の特徴です。水堀の幅も端に位置する分広めで、防御力の高さがうかがえます。
味噌曲輪
味噌曲輪は、食糧・物資の貯蔵施設であったと考えられています。
稲荷曲輪
稲荷曲輪は、社が一棟あるくらいの比較的小さなスペースで館の鎮守を祀った施設であったと考えられています。
御隠居曲輪
御隠居曲輪は館の北東側にあった曲輪です。武田氏館を築いた武田信虎が信玄によって駿河に追放された後、信虎の妻で信玄の実母である大井夫人の隠居所でした。
かつてを偲ばせる建物は全く残っていないものの、曲輪を区切る堀や土塁の跡があります。特に堀の跡は水路として活用されているため、往時の姿をイメージさせてくれます。なお御隠居曲輪の向かいには、防衛拠点が築かれた要害山がそびえています。
かつてを偲ばせる建物は全く残っていないものの、曲輪を区切る堀や土塁の跡があります。特に堀の跡は水路として活用されているため、往時の姿をイメージさせてくれます。なお御隠居曲輪の向かいには、防衛拠点が築かれた要害山がそびえています。
梅翁曲輪
武田家滅亡後、天正壬午の乱を経て甲斐国を治めた徳川家康時代に拡張された曲輪といわれ、織豊時代の石垣跡も見受けられる。
武田氏館(躑躅ヶ崎館)の御城印と百名城スタンプ
武田氏館(躑躅ヶ崎館)、御城印
武田氏館(躑躅ヶ崎館)、百名城スタンプ
武田神社宝物殿・神符集札授与所
宝物殿:9時30分~16時00分迄
宝物殿:9時30分~16時00分迄
武田氏館(躑躅ヶ崎館)の入城情報
所在地
住所:〒400-0014 山梨県甲府市古府中町・屋形三丁目・大手三丁目
TEL:055-252-2609(武田神社社務所)
TEL:055-252-2609(武田神社社務所)
開城時間
自由
休城日
なし
料金
無料
製作スタッフ紹介
記事&写真担当
歴史作家。城郭ナビゲーター。
城巡り歴は約40年ほど。防衛施設としての城もさることながら城下町としての街づくりが好き。
特に江戸時代の教育・文化・経済に強く惹かれています。
日本100名城、日本続100名城を中心に訪れたお城の数は150城を超え、2025年に200城を目指し日夜研鑽中。
現在、城トリップで仲間たちと城巡りの情報交換を行いながら記事更新しています。
城巡り歴は約40年ほど。防衛施設としての城もさることながら城下町としての街づくりが好き。
特に江戸時代の教育・文化・経済に強く惹かれています。
日本100名城、日本続100名城を中心に訪れたお城の数は150城を超え、2025年に200城を目指し日夜研鑽中。
現在、城トリップで仲間たちと城巡りの情報交換を行いながら記事更新しています。