西国を睨む伏見由来の櫓群と黒鉄板の天守
福山城_天守閣(二之丸北東側)06
福山城の見どころとイベント
福山城といえば、伏見櫓や月見櫓、御湯殿等、徳川家康時代の伏見城から移築された建物と黒鉄板で北側が防御された天守閣が有名です。
伏見城から移築されたのは、初代福山城主、水野勝成が家康の甥にあたり徳川将軍家とのつながりをもち、外様大名が多い西国武将に睨みを効かすためでもあったと考えられます。
伏見櫓の梁には、家康時代の櫓であったことを示す「松の丸東やぐら」と記された文字も見つかっています。
又、天守閣北側が黒鉄板で覆われた天守閣の形状は、福山城にしかありません。
これは幕末に老中、阿部正弘はじめとした幕閣を数多く輩出した江戸幕府重臣の城を長州藩に狙われたからで、砲撃を防ぐべく装着されたものといわれています。
二之丸北東側から白と黒のコントラストがきれいに見えるので必見です。
城は市内を南北に流れる芦田川の東側にそびえる常興寺山丘陵を中心に築かれています。築城当時、一帯は芦田川のデルタ地帯に位置していたため、干拓や埋め立てによって城域や城下町を広げる工事も行われました。また城中心部の北側には天神山、北西には小丸山がそびえているとともに、天神山の北には吉津川が流れており、北は何重にも守られていました。
現在は、JR福山駅新幹線口からすぐの場所にあり、新幹線ホームからも天守閣や櫓群がよく見えます。
天守閣は壮大な城造りができなくなった江戸時代前期に珍しい大規模なものとして貴重です。また伏見櫓や筋鉄御門など築城以来現存する建物も存在するため、城内観光では見逃せない場所です。
伏見城から移築されたのは、初代福山城主、水野勝成が家康の甥にあたり徳川将軍家とのつながりをもち、外様大名が多い西国武将に睨みを効かすためでもあったと考えられます。
伏見櫓の梁には、家康時代の櫓であったことを示す「松の丸東やぐら」と記された文字も見つかっています。
又、天守閣北側が黒鉄板で覆われた天守閣の形状は、福山城にしかありません。
これは幕末に老中、阿部正弘はじめとした幕閣を数多く輩出した江戸幕府重臣の城を長州藩に狙われたからで、砲撃を防ぐべく装着されたものといわれています。
二之丸北東側から白と黒のコントラストがきれいに見えるので必見です。
城は市内を南北に流れる芦田川の東側にそびえる常興寺山丘陵を中心に築かれています。築城当時、一帯は芦田川のデルタ地帯に位置していたため、干拓や埋め立てによって城域や城下町を広げる工事も行われました。また城中心部の北側には天神山、北西には小丸山がそびえているとともに、天神山の北には吉津川が流れており、北は何重にも守られていました。
現在は、JR福山駅新幹線口からすぐの場所にあり、新幹線ホームからも天守閣や櫓群がよく見えます。
天守閣は壮大な城造りができなくなった江戸時代前期に珍しい大規模なものとして貴重です。また伏見櫓や筋鉄御門など築城以来現存する建物も存在するため、城内観光では見逃せない場所です。
目次
福山城へのアクセス方法
飛行機で行く場合
最寄り空港:広島空港
▼レンタカーは以下
・トヨタレンタカー 広島空港店 TEL:0848-86-9500
・タイムズカー 広島空港店 TEL:0848-86-9555
・オリックスレンタカー 広島空港店 TEL:0848-86-0544
・ニッポンレンタカー 広島空港店 TEL:0848-86-9919
・日産レンタカー 広島空港店 TEL:0848-86-9023
広島空港から福山城までは車やタクシーで約46分
▼公共交通機関利用の場合
福山駅南口行きのリムジンバス利用で約1時間15分、福山駅南口下車後徒歩約10分
時刻表は以下のリンクを参照ください。
https://www.hij.airport.jp/access/timetable/3.html?id=internationalTab
▼レンタカーは以下
・トヨタレンタカー 広島空港店 TEL:0848-86-9500
・タイムズカー 広島空港店 TEL:0848-86-9555
・オリックスレンタカー 広島空港店 TEL:0848-86-0544
・ニッポンレンタカー 広島空港店 TEL:0848-86-9919
・日産レンタカー 広島空港店 TEL:0848-86-9023
広島空港から福山城までは車やタクシーで約46分
▼公共交通機関利用の場合
福山駅南口行きのリムジンバス利用で約1時間15分、福山駅南口下車後徒歩約10分
時刻表は以下のリンクを参照ください。
https://www.hij.airport.jp/access/timetable/3.html?id=internationalTab
新幹線・電車で行く場合
JR山陽新幹線・山陽本線:福山駅下車
福山駅北口より徒歩約5分
福山駅北口より徒歩約5分
車で行く場合
山陽自動車道福山西インターより約20分、福山サービスエリアスマートインターより約14分、福山東インターより約15分
・福山西インター経由:国道2号線を岡山市方面に進み「西桜町1丁目」交差点で左折→直進し「西桜町3丁目」交差点で右折→突き当たりで右折すれば駐車場に到着
・福山サービスエリアスマートインター経由:インターから出た道を進んで広島県道463号線と378号線へ→378号線に入ったところで左折・山手橋を渡り「蓮池(東)」交差点で右折→まっすぐ進めば駐車場に到着
福山東インター経由:国道182号線を海側に進んで「広尾」交差点で右折→直進後は「北吉津町(中)」交差点で左折・「東町3丁目(北)」交差点で右折→「蓮池(東)」交差点で右折・直進で駐車場に到着
・福山西インター経由:国道2号線を岡山市方面に進み「西桜町1丁目」交差点で左折→直進し「西桜町3丁目」交差点で右折→突き当たりで右折すれば駐車場に到着
・福山サービスエリアスマートインター経由:インターから出た道を進んで広島県道463号線と378号線へ→378号線に入ったところで左折・山手橋を渡り「蓮池(東)」交差点で右折→まっすぐ進めば駐車場に到着
福山東インター経由:国道182号線を海側に進んで「広尾」交差点で右折→直進後は「北吉津町(中)」交差点で左折・「東町3丁目(北)」交差点で右折→「蓮池(東)」交差点で右折・直進で駐車場に到着
駐車場
福山城には西側に専用駐車場があります。詳しい情報は以下の通りです。
・福山城駐車場
場所:広島県福山市西町2-4
利用時間:24時間
料金:1時間まで30分150円、1時間以上は30分100円、22:00~8:00は1時間100円
収容台数:普通車98台
TEL: 084-931-2513(広島県立歴史博物館)
・福山城駐車場
場所:広島県福山市西町2-4
利用時間:24時間
料金:1時間まで30分150円、1時間以上は30分100円、22:00~8:00は1時間100円
収容台数:普通車98台
TEL: 084-931-2513(広島県立歴史博物館)
福山城、最寄りの場所からのアクセス方法
福山城へはJR福山駅北口から歩いて5分です。城を麓から見ていくには、新幹線の線路沿いにある南側の出入口から天守を目指して歩くと良いでしょう。また山陽自動車道の福山西インターなどから車でアクセスする場合は、城西側の駐車場に停めると便利です。
福山城と城下町を散策する
今回は、福山駅南口タクシー乗り場付近にある旧三之丸舟入・三重櫓跡の石垣からスタートします。
次に駅北口から、旧二之丸南側の石垣を見ながら左に進み、福山城入口へ。
二之丸南側→東側→北側(五千石蔵跡)→西側と出て、旧三之丸西側(福山美術館)の庭園を散策し、旧内藤家長屋門へ
そこから、二之丸西側の神辺城由来の櫓群(四番から一番櫓へ)を見ながら、
伏見櫓、筋鉄御門、鐘櫓へ、さらに御湯殿と月見櫓、鏡櫓を経て天守へ
天守北側の門を出て、福寿会館の庭園、三蔵稲荷神社、備後護国神社を経て、城北側から東側へ見学するルートです。
次に駅北口から、旧二之丸南側の石垣を見ながら左に進み、福山城入口へ。
二之丸南側→東側→北側(五千石蔵跡)→西側と出て、旧三之丸西側(福山美術館)の庭園を散策し、旧内藤家長屋門へ
そこから、二之丸西側の神辺城由来の櫓群(四番から一番櫓へ)を見ながら、
伏見櫓、筋鉄御門、鐘櫓へ、さらに御湯殿と月見櫓、鏡櫓を経て天守へ
天守北側の門を出て、福寿会館の庭園、三蔵稲荷神社、備後護国神社を経て、城北側から東側へ見学するルートです。
舟入・二重櫓台
舟入・三重櫓は旧三之丸の南側、追手門付近にあり内桝形の強固な防衛施設でした。
築城当時は、城南側は海に近く、瀬戸内海からの海の攻撃も想定した作りだったようです。
福山駅南口バス案内所の横にあります。
築城当時は、城南側は海に近く、瀬戸内海からの海の攻撃も想定した作りだったようです。
福山駅南口バス案内所の横にあります。
二之丸南側の石垣
駅北口出てすぐに二之丸南側の石垣があります。
目の前の道路は、当時内堀で石垣や二之丸、本丸の重さに耐えられるように犬走と呼ばれる幅1~2mほどの通路があったようです。
目の前の道路は、当時内堀で石垣や二之丸、本丸の重さに耐えられるように犬走と呼ばれる幅1~2mほどの通路があったようです。
伏見櫓(国指定重要文化財)
石垣を右に見ながらまっすぐ左に進んでいくと福山城入口の石碑があります。
目の前の石段を登っていくとすぐ目の前に伏見櫓が出現します。
伏見櫓は福山城本丸の南側にそびえる三重櫓です。築城以来現存する建造物の1つで、国の重要文化財に指定されています。
もともと伏見城の松の丸東側にあった櫓でした。1619(元和5)年の伏見城廃城に合わせて2代将軍徳川秀忠の命で福山城内に移築されています。伏見城はもともと豊臣秀吉が自身の隠居所として築かせた城であるため、桃山時代の気風がうかがえます。
建物自体は3層3階建ての望楼型で、下2層が同じ大きさであるのに対し、最上層は一回り小さめになっています。また屋根は本瓦葺きです。東・西・北の三方に多くの窓が設けられており、敵や不審者の動きを見張れる物見櫓としての役割を果たしていました。なお外側についても下二層が白亜塗りであるのに対し、最上層は塗籠め(土を分厚く塗り込む手法)が施されています。江戸時代が成立した慶長年間(1596~1615年)の建築様式を色濃く残す建物です。
目の前の石段を登っていくとすぐ目の前に伏見櫓が出現します。
伏見櫓は福山城本丸の南側にそびえる三重櫓です。築城以来現存する建造物の1つで、国の重要文化財に指定されています。
もともと伏見城の松の丸東側にあった櫓でした。1619(元和5)年の伏見城廃城に合わせて2代将軍徳川秀忠の命で福山城内に移築されています。伏見城はもともと豊臣秀吉が自身の隠居所として築かせた城であるため、桃山時代の気風がうかがえます。
建物自体は3層3階建ての望楼型で、下2層が同じ大きさであるのに対し、最上層は一回り小さめになっています。また屋根は本瓦葺きです。東・西・北の三方に多くの窓が設けられており、敵や不審者の動きを見張れる物見櫓としての役割を果たしていました。なお外側についても下二層が白亜塗りであるのに対し、最上層は塗籠め(土を分厚く塗り込む手法)が施されています。江戸時代が成立した慶長年間(1596~1615年)の建築様式を色濃く残す建物です。
御湯殿
伏見櫓を後にして右に進むと、二之丸南側部分です。すぐ目の目に御湯殿、すぐ横には月見櫓も見えます。
御湯殿は筋鉄御門からまっすぐ東に行った場所にある建物です。藩主が入浴するために使われていた建物で、本丸御殿の一部でした。福山城築城の際に伏見城から本丸御殿とともに移築されました。戦前には国宝に指定されていたものの、1945(昭和20)年8月の福山大空襲で焼失しました。その後1966(昭和41)年に復元されて現在に至っています。
建物の一部が石垣の上に張り出している構造が特徴です。内部も座敷である物見の段と藩主が実際に入浴する風呂の間の2部屋から構成されています。なお「御湯殿」という呼称ではあるものの、実際は蒸し風呂で現在でいうサウナのように使われていました。また「御湯殿」の呼称も明治時代から使われだしたものです。なお現在では貸会場としてイベント時に利用されています。
御湯殿は筋鉄御門からまっすぐ東に行った場所にある建物です。藩主が入浴するために使われていた建物で、本丸御殿の一部でした。福山城築城の際に伏見城から本丸御殿とともに移築されました。戦前には国宝に指定されていたものの、1945(昭和20)年8月の福山大空襲で焼失しました。その後1966(昭和41)年に復元されて現在に至っています。
建物の一部が石垣の上に張り出している構造が特徴です。内部も座敷である物見の段と藩主が実際に入浴する風呂の間の2部屋から構成されています。なお「御湯殿」という呼称ではあるものの、実際は蒸し風呂で現在でいうサウナのように使われていました。また「御湯殿」の呼称も明治時代から使われだしたものです。なお現在では貸会場としてイベント時に利用されています。
月見櫓
月見櫓は本丸の南側、御湯殿の東側に立つ櫓です。伏見城にあった櫓を福山城築城に合わせて移築したと伝わるものです。福山藩時代は「着見櫓」という名前で呼ばれ、藩主の船が城付近の入り江に到着したことを確認するために使われていました。明治時代初期に取り壊されましたが、1966(昭和41)年に天守閣や御湯殿と一緒に復元されています。現在では主に貸会場として使われています。
建物自体は2層2階建てで、北側に附櫓が付いているのが特徴です。城内の建物では唯一唐破風が付いているとともに、2階部分の外側には朱色の欄干も設けられています。藩主が櫓に上って月見を楽しんだとされていることが、「月見櫓」の由来となっています。
建物自体は2層2階建てで、北側に附櫓が付いているのが特徴です。城内の建物では唯一唐破風が付いているとともに、2階部分の外側には朱色の欄干も設けられています。藩主が櫓に上って月見を楽しんだとされていることが、「月見櫓」の由来となっています。
鏡櫓
月見櫓を左手に折れると、鏡櫓が見えます。
鏡櫓は、本丸東側に位置する2階建の櫓で、東南隅の月見櫓から北へのびる塀でつながれ、南北6間東西4間の広さをもっていました。明治時代初期に取り壊されたましたが、1973年(昭和48年)外観復元されました。現在は文書館として、福山藩に関する古文書の収集・展示を行っています。
入館は無料ですので、天守閣とともにご覧ください。
鏡櫓は、本丸東側に位置する2階建の櫓で、東南隅の月見櫓から北へのびる塀でつながれ、南北6間東西4間の広さをもっていました。明治時代初期に取り壊されたましたが、1973年(昭和48年)外観復元されました。現在は文書館として、福山藩に関する古文書の収集・展示を行っています。
入館は無料ですので、天守閣とともにご覧ください。
二之丸(東側)
鏡櫓を後にして更に進むと、松と天守閣が美しい場所に到着します。
天守閣の写真はここもおすすめスポットです。
東側には、二之丸東上り楯門跡のきれいな石垣群や初代城主、水野勝成の像もあります。
二之丸から五千石蔵跡につながる道に、白と黒のコントラストが美しい天守閣の姿が現れるので写真撮影をおすすめします。
天守閣の写真はここもおすすめスポットです。
東側には、二之丸東上り楯門跡のきれいな石垣群や初代城主、水野勝成の像もあります。
二之丸から五千石蔵跡につながる道に、白と黒のコントラストが美しい天守閣の姿が現れるので写真撮影をおすすめします。
五千石蔵跡
五千石蔵という名前は、かつて幕府から預かった米を収める「御用米蔵」と呼ばれる蔵が立ち並んでいたことからついたとされています。「御用米」は非常時の備えとして一定量の米を幕府直轄と譜代大名の城に備蓄させる制度で用いられたもので、通常の年貢米と峻別し、管理・運営されていました。
蔵跡の北側には江戸時代の天守があった石垣跡も散見され、乾櫓跡の看板もあります。
一部は、福寿会館になっているので、庭園散策もお勧めです。
蔵跡の北側には江戸時代の天守があった石垣跡も散見され、乾櫓跡の看板もあります。
一部は、福寿会館になっているので、庭園散策もお勧めです。
三之丸(西側)
五千石蔵から回り込むように右に進むと、きれいに手入れされた庭と美術館らしき建物、そして奥にサグラダファミリアのような建築物(結婚式場のようです)が見えてきます。
福山美術館がある場所はかつて三之丸があった場所で、ここからの天守閣もお勧め撮影ポイントの1つです。草木が生い茂る春から初夏にかけては特に美しい姿が撮影できると思います。(筆者来訪は残念ながら冬でした。)
福山美術館がある場所はかつて三之丸があった場所で、ここからの天守閣もお勧め撮影ポイントの1つです。草木が生い茂る春から初夏にかけては特に美しい姿が撮影できると思います。(筆者来訪は残念ながら冬でした。)
旧内藤家長屋門
美術館の庭園を登り、二之丸に戻ると旧内藤家長屋門があります。
当時の長屋門はもっと城北西部にあったようですが移築されました。
幕末の城主、阿部家の家臣である内藤家の住居で、門には中央に入口の引戸があり,東側に二間,西側に土間と一間がありました。
当時の長屋門はもっと城北西部にあったようですが移築されました。
幕末の城主、阿部家の家臣である内藤家の住居で、門には中央に入口の引戸があり,東側に二間,西側に土間と一間がありました。
神辺櫓跡
二之丸西側に戻ると神辺櫓群の跡があります。
福山は備後国(現在の広島県東部)の中心地で、室町時代は山名氏が守護としてこの国を治めていました。その山名氏の居城が「神辺(かんなべ)城」です。
水野勝成はこの城の天守や櫓を城の西側に移築しました。
移築した櫓は全部で4つあり、一番櫓は二之丸南西部の角に配され、南から順に西側の守りを担い配置されました。(ぜひ全部見つけてください。)
福山は備後国(現在の広島県東部)の中心地で、室町時代は山名氏が守護としてこの国を治めていました。その山名氏の居城が「神辺(かんなべ)城」です。
水野勝成はこの城の天守や櫓を城の西側に移築しました。
移築した櫓は全部で4つあり、一番櫓は二之丸南西部の角に配され、南から順に西側の守りを担い配置されました。(ぜひ全部見つけてください。)
二之丸(西側)
二之丸西側にある本丸石垣には所々穴のような跡があります。これは城内と芦田川を結ぶように作られた上水路跡でもあります。実は福山城は、江戸城、赤穂城とともに日本三大上水路施設としても有名です。
筋鉄御門(国指定重要文化財)
二之丸をぐるりと一周し、伏見櫓を左に折れて筋金御門に向かいます。
筋鉄御門は伏見櫓から東に行った場所にそびえる門です。伏見櫓と同じく築城当時の状態で残っているため、国の重要文化財に指定されています。
福山城本丸の正門で、伏見櫓と同じくもともと伏見城にあったものを移築してきたものです。門自体は本瓦葺きの入母屋造りになっており、門の扉の脇には櫓門や脇戸も備えています。また下層にある柱には寝巻金具や筋金具が施されているのが特徴的です。加えて門にも12条の筋鉄が打たれており、門の名前の由来になっています。
門の上層は正面左端に出入口が設けられており、往時は見張りや防衛のために武士が出入りしていました。中央や右端、南側にも格子窓が設けられています。なおかつては門の隣に多門櫓もありましたが、廃城時に取り壊されて現在はありません。全体的に重厚感のある構えで、西国大名に備えるために築かれた福山城の性格を示す建物の1つと言えます。
筋鉄御門は伏見櫓から東に行った場所にそびえる門です。伏見櫓と同じく築城当時の状態で残っているため、国の重要文化財に指定されています。
福山城本丸の正門で、伏見櫓と同じくもともと伏見城にあったものを移築してきたものです。門自体は本瓦葺きの入母屋造りになっており、門の扉の脇には櫓門や脇戸も備えています。また下層にある柱には寝巻金具や筋金具が施されているのが特徴的です。加えて門にも12条の筋鉄が打たれており、門の名前の由来になっています。
門の上層は正面左端に出入口が設けられており、往時は見張りや防衛のために武士が出入りしていました。中央や右端、南側にも格子窓が設けられています。なおかつては門の隣に多門櫓もありましたが、廃城時に取り壊されて現在はありません。全体的に重厚感のある構えで、西国大名に備えるために築かれた福山城の性格を示す建物の1つと言えます。
鐘櫓
筋鉄御門をくぐり本丸に入り、左に折れると鐘櫓があります。
鐘櫓は筋鉄御門の北西にある鐘楼です。2階建ての入母屋造りの建物で、福山藩士や領民に時を知らせるための鐘や太鼓が設置されていました。鐘は2時間おきに、太鼓は1時間おきに鳴らされていました。なお太鼓は緊急時に武士たちを召集する役割も果たしていたとされています。
建築年代は不明ではあるものの、城内で現存する建物の1つです。1979(昭和54)年に柱や梁の老朽化に合わせて改修工事が行われるとともに、福山市の重要文化財に指定されました。現在では自動鐘つき装置が導入されており、1日4回市民に時を知らせる役割を果たしています。なお近現代に活躍した作家・井伏鱒二の小説『鐘つき男』の文中にも登場します。
鐘櫓は筋鉄御門の北西にある鐘楼です。2階建ての入母屋造りの建物で、福山藩士や領民に時を知らせるための鐘や太鼓が設置されていました。鐘は2時間おきに、太鼓は1時間おきに鳴らされていました。なお太鼓は緊急時に武士たちを召集する役割も果たしていたとされています。
建築年代は不明ではあるものの、城内で現存する建物の1つです。1979(昭和54)年に柱や梁の老朽化に合わせて改修工事が行われるとともに、福山市の重要文化財に指定されました。現在では自動鐘つき装置が導入されており、1日4回市民に時を知らせる役割を果たしています。なお近現代に活躍した作家・井伏鱒二の小説『鐘つき男』の文中にも登場します。
伏見城移築の櫓群跡(火灯櫓跡、伏見御殿跡、御台所門跡など)
鐘櫓のある本丸には、様々な櫓や御殿がありました。
その多くは伏見城から移築されたもので、伏見御殿跡、火灯櫓跡もその1つです。
鐘櫓付近では2024年現在、御台所門跡の発掘調査が行われています。
その多くは伏見城から移築されたもので、伏見御殿跡、火灯櫓跡もその1つです。
鐘櫓付近では2024年現在、御台所門跡の発掘調査が行われています。
天守
天守は福山城最大の見どころとなる建物です。5層6階の構造になっているとともに、2重3階の附櫓を伴っています。一国一城令が出された後に幕府の許可を得て築かれた城の天守としても貴重な存在です。福山城が明治維新を経て廃城になった後も残り続け、国宝にまで指定されました。しかし1945(昭和20)年8月に戦災で焼失し、1966(昭和41)年に鉄筋コンクリート建てで復元されました。現在は福山城博物館として使われており、内部では江戸時代を中心にした福山市の歴史展示が見られます。また最上階は展望台となっており、福山市街を一望できます。
福山城の天守で最大の特徴が、かつて存在した北側の鉄板張りです。北側からの大砲による攻撃に対処するために設けられたとされています。東・南・西の3方向は白亜の総塗籠になっているのに対し、北側だけは鉄板張りのおかげで黒く見え、全国でも唯一のケースとして貴重です。
福山城の天守で最大の特徴が、かつて存在した北側の鉄板張りです。北側からの大砲による攻撃に対処するために設けられたとされています。東・南・西の3方向は白亜の総塗籠になっているのに対し、北側だけは鉄板張りのおかげで黒く見え、全国でも唯一のケースとして貴重です。
福寿会館
天守閣から北門を出て五千石蔵跡の横に福寿会館入口があります。
福寿会館は、海産物商で財を成した安部和助(あんべわすけ)氏が、昭和初期(本館は1935年(昭和10年)から1937年(昭和12年)頃まで)に建造したもので、建物は本館・西茶室・南茶室・西蔵・東蔵・洋館があり、すべて国の登録有形文化財となっています。
おすすめは、本館と庭園で、内部は、建物は許可がない人が利用することはできません。
庭園のいたるところから黒い天守が見えます。
福寿会館は、海産物商で財を成した安部和助(あんべわすけ)氏が、昭和初期(本館は1935年(昭和10年)から1937年(昭和12年)頃まで)に建造したもので、建物は本館・西茶室・南茶室・西蔵・東蔵・洋館があり、すべて国の登録有形文化財となっています。
おすすめは、本館と庭園で、内部は、建物は許可がない人が利用することはできません。
庭園のいたるところから黒い天守が見えます。
三蔵稲荷神社
福寿会館の隣には三蔵稲荷神社があります。
神社は福山城主代々の守護神をまつる神社で、境内には、五穀豊穣の神、宇賀魂大神(うがのみたまのおおきみ)、通商・貿易の神様、猿田彦大神(さるたひこのおおきみ)、芸術の守護神、大宮女大神(おおみやめのおおきみ)の三神が祀られています。
神社は福山城主代々の守護神をまつる神社で、境内には、五穀豊穣の神、宇賀魂大神(うがのみたまのおおきみ)、通商・貿易の神様、猿田彦大神(さるたひこのおおきみ)、芸術の守護神、大宮女大神(おおみやめのおおきみ)の三神が祀られています。
備後護国神社 (阿部神社)
三蔵稲荷神社を降りると道を挟んですぐに備後護国神社があります。
備後護国神社は、明治維新での戦士者を祀った備後神社と江戸中期から幕末にかけて城主だった阿部氏の祖先である孝元天皇と中興の祖正勝公を祖霊した阿部神社が昭和30年代に合祀した神社です。
有名なのは福山城主水野家の剣術指南役だった宮本武蔵が腰をかけたとされる石と、幕末、長州藩に城を攻撃されたとき、現在の神社がある天神山を抑えらたことで城内の様子が筒抜けになり半日で降伏したとされるお話です。
実際に本殿のある天神山頂付近からは福山城の天守や本丸、五千石蔵などがはっきり見えます。
備後護国神社は、明治維新での戦士者を祀った備後神社と江戸中期から幕末にかけて城主だった阿部氏の祖先である孝元天皇と中興の祖正勝公を祖霊した阿部神社が昭和30年代に合祀した神社です。
有名なのは福山城主水野家の剣術指南役だった宮本武蔵が腰をかけたとされる石と、幕末、長州藩に城を攻撃されたとき、現在の神社がある天神山を抑えらたことで城内の様子が筒抜けになり半日で降伏したとされるお話です。
実際に本殿のある天神山頂付近からは福山城の天守や本丸、五千石蔵などがはっきり見えます。
福山城二之丸犬走と内堀跡
備後護国神社を後にして大鳥居をくぐり右折して進みます。
当時は、馬場や内堀があった場所で、二之丸の東側にあたります。
大きな犬走は公園に、馬場と内堀は道路になっています。
この福山城の東側からは、石垣が非常にきれいに見えます。
当時は、馬場や内堀があった場所で、二之丸の東側にあたります。
大きな犬走は公園に、馬場と内堀は道路になっています。
この福山城の東側からは、石垣が非常にきれいに見えます。
福山城の御城印と百名城スタンプ
福山城の御城印
福山城では御城印を販売しています。
福山城博物館
住所:〒720-0061 広島県福山市丸之内1ー8
TEL:084-922ー2117
料金は1枚200円です。
福山城博物館
住所:〒720-0061 広島県福山市丸之内1ー8
TEL:084-922ー2117
料金は1枚200円です。
福山城の日本百名城スタンプ
日本百名城スタンプは以下で希望者にのみ貸し出しとなります。
福山城天守閣内部
住所:〒720-0061 広島県福山市丸之内1ー8
TEL:084-922ー2117
開館期間: 年中無休
開館時間:4月1日~8月31日:9:00~18:30(入館は18:00まで)
9月1日~3月31日:9:00~17:00(入館は16:30まで)
福山城天守閣内部
住所:〒720-0061 広島県福山市丸之内1ー8
TEL:084-922ー2117
開館期間: 年中無休
開館時間:4月1日~8月31日:9:00~18:30(入館は18:00まで)
9月1日~3月31日:9:00~17:00(入館は16:30まで)
福山城の入城情報
所在地
広島県福山市丸之内1-8
084-928-1095(福山市役所公園緑地課)
084-928-1095(福山市役所公園緑地課)
開城時間
6:00~22:00
休城日
年中無休
料金
無料
福山城下、鞆の浦を散策する
福山駅から一時間に1本か2本のトモテツバスに乗って向かいます。終点の鞆港までの所要時間は時間は約30分ほど。
鞆の浦は、「崖の上のポニョ」の舞台になった場所としても有名で、瀬戸内随一の名所「対潮楼」からの眺めも必見です。
室町幕府第15代将軍足利義昭が、織田信長に京都を追放され、毛利氏を頼って逃れ16年ほど移り住んだ場所で、現在も鞆城跡としてその一部が垣間見えます。
瀬戸内にひっそりとたたずむ港町は、中世より海上交通の要衝で、江戸時代も安芸・備後を治めた福島正則も海上交通の要衝を守るための強固な城をこの地に構築しました。
水野氏が福山を治めるようになってもこの地の重要性は薄れず、街には当時の貴重な面影を残す建築物があちこちに散見されます。
鞆の浦は、「崖の上のポニョ」の舞台になった場所としても有名で、瀬戸内随一の名所「対潮楼」からの眺めも必見です。
室町幕府第15代将軍足利義昭が、織田信長に京都を追放され、毛利氏を頼って逃れ16年ほど移り住んだ場所で、現在も鞆城跡としてその一部が垣間見えます。
瀬戸内にひっそりとたたずむ港町は、中世より海上交通の要衝で、江戸時代も安芸・備後を治めた福島正則も海上交通の要衝を守るための強固な城をこの地に構築しました。
水野氏が福山を治めるようになってもこの地の重要性は薄れず、街には当時の貴重な面影を残す建築物があちこちに散見されます。
太田家住宅(国指定重要文化財)
鞆港のバス停を降りて目の前にある海を右折しながら進みます。
途中細い路地に入り左折すると右手に見えてきます。
太田家住宅は瀬戸内海を代表する往時の商家の佇まいを今に伝える、歴史的価値のある建造物群で、主屋や炊事場、保命酒蔵が見事に保存され、玄関には杉玉掛けもあり、造り酒屋の構えをよく残しています。
これらの建物群は江戸時代中期から後期にかけて、「旧保命酒屋」中村家が拡張・増築していったものですが、明治に入って廻船業を営んでいた太田家に継承され、今日に至っています。
途中細い路地に入り左折すると右手に見えてきます。
太田家住宅は瀬戸内海を代表する往時の商家の佇まいを今に伝える、歴史的価値のある建造物群で、主屋や炊事場、保命酒蔵が見事に保存され、玄関には杉玉掛けもあり、造り酒屋の構えをよく残しています。
これらの建物群は江戸時代中期から後期にかけて、「旧保命酒屋」中村家が拡張・増築していったものですが、明治に入って廻船業を営んでいた太田家に継承され、今日に至っています。
常夜燈
太田家住宅を出るとすぐに、海が見えます。その真ん中に常夜燈があります。
1859年に建てられた船の出入りを誘導してきた灯台で、高さは5.5m、海中の基礎の上から宝珠まで11mあり、現存する江戸時代の常夜灯としては最大級の大きさを誇ります。
雁木や船番所とともに鞆の浦の港の歴史を物語っています。
1859年に建てられた船の出入りを誘導してきた灯台で、高さは5.5m、海中の基礎の上から宝珠まで11mあり、現存する江戸時代の常夜灯としては最大級の大きさを誇ります。
雁木や船番所とともに鞆の浦の港の歴史を物語っています。
船番所跡
常夜燈を後にしてもと来た鞆港バス停方面に向かいます。港沿いを進むと雁木がずっと連なります。
その奥、海まで向かっていくと船番所跡です。
江戸時代の初め、最初の鞆奉行・萩野新右衛門重富によって造られたもので、船の出入りや安全を管理・監督する設備で、今で言う港湾管理事務所にあたります。
現在は番所跡が喫茶店担ってますので当時の気分でコーヒーでもいかがでしょうか。
当時の番所は残っていませんが、強固な石垣が当時の様子を伝えてくれます。
その奥、海まで向かっていくと船番所跡です。
江戸時代の初め、最初の鞆奉行・萩野新右衛門重富によって造られたもので、船の出入りや安全を管理・監督する設備で、今で言う港湾管理事務所にあたります。
現在は番所跡が喫茶店担ってますので当時の気分でコーヒーでもいかがでしょうか。
当時の番所は残っていませんが、強固な石垣が当時の様子を伝えてくれます。
大可島城跡
船番所跡から細い路地を入っていくと圓福寺に出る。
現在お寺がある場所は、以前は離れ小島で、大可島と呼ばれていました。
南北朝時代、北朝と南朝が激しく争った鞆合戦でも有名です。
円福寺境内に登ると堅固な石垣が見えてきてそこにお城があったことを実感させられます。
現在お寺がある場所は、以前は離れ小島で、大可島と呼ばれていました。
南北朝時代、北朝と南朝が激しく争った鞆合戦でも有名です。
円福寺境内に登ると堅固な石垣が見えてきてそこにお城があったことを実感させられます。
鞆城跡
大可島城跡(圓福寺)を後にして細い路地を進むと大きな通りに出ます。
ここから最初の太田家住居方面に進むとひと際小高い場所が見えてきます。
下には鞆城跡の案内がありますので、比較的わかりやすいです。
鞆城は、備後における尼子氏の備えとして毛利元就の家臣、渡辺氏によって築かれた要害の砦で、後に足利義昭の住いともなりました。
鞆中心の丘陵地に築かれ、本丸、二の丸、三の丸があったとされます。
現在は、本丸跡に鞆の内歴史民俗資料館がたち、当時の面影を残す建築物はありませんが、二の丸跡に建つ地蔵院や、本丸途中には当時の石垣跡が垣間見えます。
本丸跡から見る瀬戸内海はきれいです。ぜひ登って見てください。
ここから最初の太田家住居方面に進むとひと際小高い場所が見えてきます。
下には鞆城跡の案内がありますので、比較的わかりやすいです。
鞆城は、備後における尼子氏の備えとして毛利元就の家臣、渡辺氏によって築かれた要害の砦で、後に足利義昭の住いともなりました。
鞆中心の丘陵地に築かれ、本丸、二の丸、三の丸があったとされます。
現在は、本丸跡に鞆の内歴史民俗資料館がたち、当時の面影を残す建築物はありませんが、二の丸跡に建つ地蔵院や、本丸途中には当時の石垣跡が垣間見えます。
本丸跡から見る瀬戸内海はきれいです。ぜひ登って見てください。
対潮楼
鞆城本丸跡を下ると駐車場に出ます。右に折れて細い路地を左に折れて向かうと対潮楼のある福禅寺に出ます。
対潮楼は、1690年ごろ真言宗の寺院・福禅寺の客殿として建てられました。
江戸時代,対潮楼は朝鮮通信使のための迎賓館として使われ、日本の漢学者や書家らとの交流の場にもなっていました。
座敷からは、穏やかな瀬戸内海に仙酔島や弁天島がぽっかりと浮かぶ、鞆の浦の素晴らしい眺めを一望することができます。
ぜひ、足を運んでみてください。
対潮楼は、1690年ごろ真言宗の寺院・福禅寺の客殿として建てられました。
江戸時代,対潮楼は朝鮮通信使のための迎賓館として使われ、日本の漢学者や書家らとの交流の場にもなっていました。
座敷からは、穏やかな瀬戸内海に仙酔島や弁天島がぽっかりと浮かぶ、鞆の浦の素晴らしい眺めを一望することができます。
ぜひ、足を運んでみてください。
製作スタッフ紹介
記事&写真担当
歴史作家。城郭ナビゲーター。
城巡り歴は約40年ほど。防衛施設としての城もさることながら城下町としての街づくりが好き。
特に江戸時代の教育・文化・経済に強く惹かれています。
日本100名城、日本続100名城を中心に訪れたお城の数は150城を超え、2025年に200城を目指し日夜研鑽中。
現在、城トリップで仲間たちと城巡りの情報交換を行いながら記事更新しています。
城巡り歴は約40年ほど。防衛施設としての城もさることながら城下町としての街づくりが好き。
特に江戸時代の教育・文化・経済に強く惹かれています。
日本100名城、日本続100名城を中心に訪れたお城の数は150城を超え、2025年に200城を目指し日夜研鑽中。
現在、城トリップで仲間たちと城巡りの情報交換を行いながら記事更新しています。